退院直後のやつれはてた筆者


 7月の上旬から入院生活をしており、8月の始めごろには5時間に及ぶ手術から生還する。しかし、術後の経過がよろしくなくなかなか床払いできず、8月末日昼頃、ようやく退院となった次第だ。

 事の始まりは、7月某日の朝、突如腹痛におそわれる。時折、激痛が走った。だが、この年、この時期の僕の仕事は激務の真っただ中で休むわけにはいかない。這いつくばるように職場に向かい、暫しやってくる激痛に目が眩みそうになりながらもどうにか1日を終えた。

 医者嫌いな僕だが、さすがに尋常じゃない事態に帰りがけ自宅近くの内科医院へ向かった。

 がっ・・・

 この日は午後から休診とのこと。やむなく帰宅すると家人も僕の顔色に驚愕し、夜間診療の病院へほぼ強制的に連れて行かれた。

 とりあえず、簡単なレントゲンを撮り、症状を確認した医師は、これは思ったより深刻な事態かも知れない。このまま検査入院してもらうと告げられた。

 この日から退院まで、一度も帰宅するもできない闘病生活が始まった。ネットなし。当然、アルコなし。点滴のため鼻・手・首・脇腹・肛門からチューブでがちがちの日々だ。

 思わぬ重症で、人生初の本格的な入院生活の記録となるが、あまり振り返りたくないというか、もう本当に勘弁という部分もあるので、あたり障りのない範囲でUPしていこうかな?やっぱ止めにしようかなとか考えているところです。というより、これを書いている現時点でも体力が弱っているままだ。





 緊急入院となり、ベットに横になるもなんだか固くて背中が痛い。腹も痛いので両面攻撃となり、朝まで2時間ぐらいしか眠れなかった。

 日中、いろいろ検査した結果、痛んでいる局部の摘出手術が確定する。ここから内臓を清浄化するため(腹膜炎も起こしていた)の液を送り排出するため、鼻から胃までチューブを通した。これが喉あたりを通過した瞬間から、あちこちにひっかかり、何度も茶色の胃液みたいなものを吐いた。

 病室に戻ってからも気持ち悪いのが治らず。ほとんど添い寝しながら、長時間、腹や背中をさすってくれた看護師さんには本当に感謝した。と同時に自分のあまりの無力さも痛感する。

 3日目、現在の病院では手術する環境がないため、系列の規模の大きい医療機関に転院となった。今までお世話になっていた看護師さんも付き添ってくれたのだが、新しい病院に着いた途端・・・

 鼻のチューブを外され、逆の穴から胃まで別のチューブを挿入。さらに肛門から胃までのチューブが差し込まれた。腕にも。(TT)

 チューブでがんじがらめの状態で病室に運ばれる。もう絶対安静。介護パンツも履いていた。このまま鼻などから液が送り込まれたり排出したりで、内臓の清浄化をはかってから手術のようだ。それまでこの態勢で2週間以上横たわっていないといけない。

 しかも栄養分はすべて点滴から採るので、飲まず食わず。僕の身体はみるみる痩せ細っていく。それでも何もできない。

 本当に僕は無力だ。

 家人によると筆者の書斎にある観葉植物(小さい頃から大事に育ててきた)のうち2鉢が猛暑のせいもあると思うのだが、いきなり弱ってきて枯れてしまったそうな。また長年手塩にかけていたイチゴ畑も全滅した。入院した時期と同じ頃だったので、なんとなく不気味に感じた。後に風水的観点から、この植物たちが、筆者の身代わりになってくれたのではという説もあり。





 全身がチューブで固定され、絶対安静状態が続く。内臓を浄化する重い機械にも繋がっている。まるで重りに繋がれた明治時代の北海道の収監所の囚人のようだった。

 3日もするとトイレにも満足に行けない状況に辟易した僕は、主治医にお願いし、チューブを長くしてもらい、2、3メートルの範囲なら、点滴をしながら動けるようになった。ポータブルトイレにもいける。でもまだまだ籠の中の鳥だ。ちなみに点滴には排泄を促進する効果がある薬品も入っており、日に20回以上も用をたさなければならず睡眠不足に悩んだ。(後日、眠剤をもらうようなった)

 それにしても手術まで2週間以上もある。膨大な時間をベッドの上で浪費していくなどあまりにももったいない。家人から自宅の書斎にある書籍を大量に運んでもらい、乱読を始めた。時折、甲子園大会の地区予選などをTVで見たり、同じく持ち込んだラジオなどもよく聴いていた。とある資格試験の問題集1冊も短期間で終了する。

 やがて、手術日が近づいてくる。食べずに点滴で栄養補給しているせいか、10キロ以上体重が減ってきた。血圧もずいぶん低くなる。貧血の症状が出ているから、術前・術中に輸血の必要もあるそうだ。

 8月初旬、いよいよ手術当日となる。この日は、20日ぐらいぶりにシャワーを浴びた。入院サポート企業の女性から背中を流してもらう。「大丈夫、全身麻酔をするから気が付いたら終わってますよ」と励まされたが、やはり緊張した。それに親しい仲間とかに連絡を取らずに黙っていていいものか悩む。とりあえず、友人2名には、『もし俺に何かあったら、皆によしなに伝えてもらいたい』ということで、事の次第を連絡した。これでもう今生に思い残すことはない。

『潔い態度で事にのぞもう』
 午後、まあ、どうにか北のサムライらしく腹を切る覚悟を定めた頃、ベッドごと手術室へ運ばれた。執刀医、その他スタッフの人たちなど、思ったより大人数である。など、ぞんがい冷静に周囲の状況を観察している自分の姿があった。

 3・2・1・・・

 麻酔が流れ、ドクターの合図で、僕の意識はきっぱりと落ちた。





 手術後の腹を縫い合わせた画像もあるのだが、ネットにUPするのは、あまりにも絵面が生々しいというかグロイので、どんなものかと撮影者の家人からストップがかかった。確かに縦一文字にばっさりと長い縫痕はぞんがい凄まじい。あたかもニトヌプリの登山道のようだ(謎)。

 とにかく5時間以上の手術は終了し、麻酔から目覚めた。全身麻酔の最中に夢を見る人の話を聞いたことがあるけど、僕の場合は記憶が切れていて、気がついたら全部終わっていたという感じだ。僕は見てないが、家人によると患部周辺をかなりざっくりと摘出したそうだ。

 目が覚めると同時に体中の麻酔も消えていき、激痛が走った。病室に戻っても特に腹部と背中が痛い。身体を少しでも動かすとズキッと響いた。家人に腹をさすってくれだ、背中をさすってくれだと喚いていると、「男はお産の経験がないから、こういう時にもろいのよ。しっかりしなさい」と、年配の看護師の方から一喝される。

 この晩は、多分、朝方までうめき声を出していたと思われる。その後、痛み止めがようやく効いてきて深い眠りに落ちた・・・ようだ。ふと目覚めるとレントゲン技師の方が病室にやってきて、痛いと叫んでいるのに情け容赦なく僕の身体をひねりながら撮影していった。言葉を喋るだけでも腹に響く。

 丸一日が過ぎる頃、ようやく落ち着いてきた。脇腹や鼻、肛門、首筋、もちろん腕にも点滴からチューブが通っている。やはり身動きがとれない。

 3日も過ぎると起き上がり、点滴の棒を押しながら動けるようになってきた。主治医から「これなら、重湯ぐらいの流動食は食べれる」と判断された。久々に口から物が食べれたと喜んでいたのもつかの間、内臓の縫った部分から重湯が漏れているのがレントゲンで判明し、また食事止め。さらに重い機械から腹中に液が出し入れされ、内臓の洗浄が再開してしまった。これで盆明けの退院予定が大幅に延期になったと思われる。

 まあ、夏の甲子園大会も始まったことだし、焦らず慌てず療養した。しかし、延長何回かから始まるタイブレーク制って壮絶だった。また激戦の連続で手に汗握る好ゲームばかり。就中、金足農業の準優勝は白眉だった。済美高校の校歌「やればできる。魔法の言葉・・・」はなんと素晴らしい歌詞だろう。

 家人から自宅の書斎にある映画ロッキーシリーズ全巻(1〜6+クリード)のDVDを持参してもらい久々にじっくりと観賞(何度観ても感動する)したりする。なんてやっているうちにお盆も過ぎ、お粥ベースの食事も再開した頃、一つひとつ点滴が外されていき退院1週間ぐらい前には僕の身体からチューブがようやく消え、理学療法士の方からリハビリも開始された。

 なにより、点滴がないので夜中にお手洗いに起きる件数が激減し、大いに助かった。夜中にぐっすり眠れることの快適さよ。しかし、その晩あたり、40℃ぐらいの高熱を発し、当直の看護師さんに大変なお手数とご心配をかける。熱は一晩で収まるが、これも退院延期の遠因になったやもしれない。たぶん首筋のチューブの穴から雑菌が入って発熱したらしいとのこと。

 話は前後するが盆が近づいてくる頃、携帯にメール入った。
「ゴロウさん、ニセコに来れないですか?」
 ヤタロウからだ。

 なんでも仕事の都合で、熊本から山口に転居したそうだ。せっかく誘ってもらったのだが、この夏は長期入院中で無理だと返信すると、かなり驚いた様子で、お見舞いと励ましのメッセージをもらった。ヤタロウは気の優しい若者で、その後も何度も具合いはどうですかというメールが届いた。また一緒に山に登れる日を楽しみにしているぞ!

 入院中の食事なんだが、点滴だけよりは遥かにいいけどさすがに3食おかゆだと飽きてくる。どんぶりいっぱいに盛られてくるし、味噌汁と脂身の少ないおかずも二品、ゼリーまたはバナナなどのデザートつきなので縮まった胃袋にはかなり堪えた。数日後には口内炎ができる。その後は分量には慣れてきたけど、なぜか体重が減少していく。引き締まっていくのならいいけれど、不健康にやつれていった。これじゃまるで病人じゃねえか!いや間違いなく重病人だって?

 消灯時間は21時。すっかりこの時間に寝るのが慣れてきて(眠剤はもらっていたけど)、いったん寝るけど0時にはトイレに起き、また寝る。3時にまたトイレ。また寝て4時過ぎに起床。あとは眠れなくなった。自宅で健康な日々なら、このままランニングに出てしまうのだがあいにく病床だ。イヤホーンでラジオを聴きながら本を読むことが多くなる。しかし、こんな時間に放送されているNHKの『ラジオ深夜便』がなかなか面白い。懐かしのミュージック特集など、とても楽しませてもらう。

 そして午前中は、睡眠不足でうとうととくたばっている。理学療法士さんが、リハビリのため、わざわざ病室まで迎えに来てくれるのだが、起きれなくて何度後まわしにしてもらったことか。理学療法士さんは、男性と女性の2名の先生だったけど、どちらも温厚で本当に心根の優しい方たちであった。

 これだけ長期の入院だと看護師や支援スタッフの方たちの中にも北海道話で盛り上がってくれる人もいた。久々に『北の国からの』のゴロウさんのモノマネが受けた時は嬉しかった。ずっと僕のモノマネは低迷期が続いていたもので。

 退院直前になると、ごくたまにシャワーを浴びる(入院中3回)だけで、髪の毛はボサボサのぼくは、本当にむさいオッサンと化してきた。こう見えて、ぞんがいおしゃれで綺麗好きな野郎なんですよ。普段はランニングの後、毎朝シャワーを浴びるのが日課だったし。とにかく風呂に入って、床屋に行きたいのだ。

 ちなみに冒頭の画像は、退院してすぐに自宅で風呂に入り、床屋にいった後のものだから、かなり小ざっぱりしていると思う。ただし、あまりにもやつれ過ぎだ。筆者の身長は武道家らしく、175センチ、目方は75キロの堂々たる偉丈夫だったけど、退院直後の体重は60キロを完全に切っていた。これは野球少年だった中学3年時代と同じ目方ではないか?(通常はビール腹のただのオッサンがその正体?)



退院直前


 8月最終日。すなわち退院当日、主治医の先生のお話(病状の説明や今後の治療)をいただき、ようやく釈放となった。娑婆では、猛暑や豪雨などの自然災害で大変な状況も遭ったようだが、ずっとコンクリートの檻の中にいた僕にはなにもわからないというか、浦島状態である。いつの間にか、夏も終わっちまったかと呟きながら福島市中心部の様子を車窓から眺める福島のゴロウさんであった。

 この夏の思い出は、鼻から尻から首から脇腹から点滴のチューブを通され、腹縦一文字の縫い傷ができ、痛みでのたうち回ったこんこんちきな夏だった。

 本当は、2018年の夏、これが僕の人生の終焉だと幾度となく覚悟しておりました。

「もう一度、同じ目に遭ったら、生命のスイッチを切ってもらおうかなあ」
 と、ある看護師さんに冗談を言ったら、腹を抱えて爆笑していた。

 次回は闘病の記録などではなく、北のサムライの読み物らしく愛と感動のツーリング記を執筆したいと切に願いながら筆を置くこととしよう。



FIN



記事 北野一機



2018.9.17UP



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PS.



※2020年3月、再発が発覚し、ふたたび摘出手術を受ける。しかし、この3年で2度も覚悟の大手術から生還すると、死を無用に怖れなくなった。かつて、真の男よ、北のサムライよ、とよばれた野郎のバディは完全にボロボロだけど。