年を越し、1981年となる。

 正月4日から初稽古が開始された。冬の間は体力増強が主眼なので”嘆きの坂”のダッシュや長距離の走り込み、道場に戻れば筋肉トレーニングをばっちりとこなした。1年生もほとんどバテる者が出なくなった。寝技の時間も多く取るので、耳がカリフラワーのように変形したのには驚いたし、カッコ悪くて困った。

 やがて4月になり、新入部員が柔道場にやってくる。新2年生たちが、大威張りで1年生に接している様子には微笑ましいものがあった。ただ、新入部員教育係は昨年のサガワのように固定ではなく、2年生が交代であたることになった。練習時間を平等にとらせるためである。

 全部で6人の1年生のなかにスズキという小柄な部員がいた。柔道経験はない。格闘技に興味があり、柔道の黒帯を取得したくて入部した。ところが入部した当日から柔道着を着ることもなく、ジャージ姿でひたすら”嘆きの坂”での坂道ダッシュと筋トレばかりやらされた。

 嘆きの坂での坂道ダッシュは言語に絶するほど凄まじいもので、何人かの1年は嘔吐していた。スズキは吐くのは免れたが、息があがってしまい、頂上の丘で倒れこんでしまった。ところが、日替わりでやってくる筋肉隆々の2年の先輩たちは誰一人として息もあげずに平然とこなしている。彼らは、たった1年前に入部したわけだ。それがこんな具合に鍛え上げられるのかと思うとゾッとしてしまった。

「先輩たちは、こんなに凄い坂道ダッシュでも平気なんですか」
 スズキは思わず訊ねてみた。
「ああ平気だ。でもな、1年前はおまえらみたいにへばって吐いてたよ。鬼より怖いサガワ先輩にずいぶんと鍛えられたからなあ。まあ、毎日繰り返しているうちに慣れちまうもんだ」
 温厚を絵に描いたようなマツイ先輩が、優しく答えた。

 GWを過ぎると1年の柔道経験者2名は通常の稽古に合流していった。残ったスズキたちは2年生から徹底的に投げ飛ばされ受け身を体で覚えさせられた。

 やがて地区予選が始まる。スズキは個人戦で先輩たちの恐るべき強さを見せつけられた。特に部長のサガワ先輩は豪快な払い腰が冴え、次々と秒殺の1本で対戦相手を降し続け、中量級であっさりと優勝を遂げた。

 同じく3年のヨシバ先輩は小内刈という足技だけで面白いように対戦相手からポイントを奪い、どんどん勝ち上がって軽量級を制してしまった。他の先輩たちも続々と入賞を果たす。団体戦も地区3位に入り、県大会出場が決定する。

「オレも先輩たちのように強くなりたい。いや強くなってみせる」
 感動したスズキは固く誓うのであった。

「みんなよく頑張った。今度の県大会の開催地区は当地区になる。しかも会場は、うちの学校の体育館だ」
 顧問の先生が帰りのミーティングで衝撃の事実を発表すると2,3年生の顔色が変わった。あきらかに動揺している。
「まじっすか」
 タナカ(キツネ)が呟いた。
『腹をくくれ。まあ、全校生の前で無様な試合はできねえってことなんだよ』
 サガワは部員全員に言い放った。

 県大会・・・

 さすがに地区とはレベルが違うのか初日の個人戦では3回戦ぐらいまででチームのほとんどの選手が姿を消してしまった。ひとりサガワだけが豪快な払い腰を次々と炸裂させ、準々決勝まで駒を進めるも判定負け。またも左膝も痛めるというアクシデントに見舞われてしまう。

 翌日の団体戦も初戦から優勝候補の強豪校と対戦することになり、先鋒から副将までの4人があっという間に1本で破れ、もうチームの負けは決定していた。

『俺の最後の試合をようく見ておけ』
 サガワは左膝にチューブをぐるぐると巻きつけながら、周囲に豪語していた。
「サガワ先輩、柔道はもうやめてしまうのですか」
 マツイが驚いた顔をしていると、
『馬鹿者、高校時代の最後の試合だ』
 マツイの頭にゲンコツをかました。
「相手は県の重量級チャンピョンのヒライですよ」
『誰だろうと関係ねえ』

 うおおおおお〜

 鬼より怖いサガワ先輩は雄叫びを放ち、ヒライに挑みかかった。あたかも巨鯨に立ち向かう鯱の如し。ヒライは、サガワの倍以上の体重140キロもある巨漢だ。しかも肌が白いことから”白い壁”とか”人間山脈”といわれ、他の高校の柔道部員から恐怖の代名詞となっていた。

 軸足の膝を痛めたサガワは既に払い腰は使えない。大内刈で倒してから、得意の寝技に持ち込む作戦だった。ところが、パワーが違い過ぎて技がまるで効かず返されて有効ポイントを次々に加算されてしまう。

 しかし、ポイントは取られてもサガワは負けてなかった。果敢に技を仕掛けるので、ヒライが反撃する隙がまったくない。ヒライは、ただ力任せにサガワの鋭い技を返しているだけに過ぎなかった。

 確実にサガワから圧倒されている。ヒライにも焦りが出てきたようだ。強引な背負い投げをかけられ、サガワの体はあわや浮き上がりかけたが、腰を落としてなんとか踏ん張る。だが、これはヒライのフェイントで逆に強烈に後へ返されてしまった。

”1本”

 主審の手が上がる。誰もが”ああ、ついに負けてしまったか”と思った刹那・・・

 副審2名から技ありのジャッジがあり、”訂正、技あり”主審が1本の判定を取り消した。

 ヒライはサガワの体に背中から押し潰した体勢で、少し油断していたと思われる。

 残心・・・

 ヒライは1本の判定で勝ったと安心し残心を怠った。武道とスポーツの大きな違いはここだ。剣道でも空手道でも、もちろん柔道でも武道では大事な心得である。つまり一撃で敵を倒した思っても、もしかしたら敵が起き上がって反撃してくるやもしれん。これを想定し暫くは油断せず臨戦態勢を維持していなければならないのだ。

 サガワにとっては千載一遇のチャンス到来だった。ヒライの巨大な背中から首筋に手をかけ、両脚で胴を締めた。完璧な送り襟締めが決まった。ヒライはもがいたが、もがくほど首筋に襟が喰い込んでいく。やがてヒライはぐったりして動かなくなった。失神したらしい。

”1本、それまで”

 試合を観戦していた同じ学校の連中から拍手喝采だった。どうやら一矢報いることができたとサガワは安堵していた。

「溜飲が下がる試合だったぞ」
 ヨシバを始め、部員全員が狂喜している。
「先輩、引退してもたまには我々を鍛えてくださいよ」
 タナカ(キツネ)が言っていた。
『ああ、気が向いたらな』
 しかし、サガワはもう高校時代の柔道に思い残すことなどなにもなかった。

 この衝撃的な試合を目の当たりに観ていたスズキは、生涯忘れないようにしようと思った。どんなに相手が強くても最後まで全力で戦えるストロングスタイルの選手になろうと決意する。2年後、県大会の軽量級でスズキは見事優勝し、インターハイ出場を果たした。努力が結実したのだ。

 サガワが引退してから初めて柔道場へ顔を出したのは秋も深まったとある日曜日のことだった。どうしたことか彼は憑き物が落ちたように獰猛かつ豪快なオーラが消え、穏やかな好青年になっていた。バイクで来たらしく、狐色の革ジャンと青のジーンズ姿がよく似合っている。さらに驚いたことに目を奪うような美しい女性を連れてきていた。

『やあ、元気だった。すっかり体が鈍ってしまってね、少し、稽古に交ぜてくれたまえ』
 部員の誰もが唖然としている中、サガワ先輩は柔道着に着替え始めた。

「おい、あの女の人、大変な美人じゃないか。間違いなく先輩の彼女だよな」
「でも先輩は硬派サガワといわれるぐらい女っけがないんじゃ・・・」
「いや、サガワさんって、やっぱり面食いだったんだよ」
「現役の間は、修行の妨げになるんで女を寄せつけなかったというふしもあったぞ」
「それより、あの人、確か3年のミズグチエリという先輩だよ。凄い頭がよくて綺麗だと評判の?」
「あっ、それ、聞いたことある。才色兼備の・・・」
「いずれにしても先輩の変貌ぶりは、上品なミズグチさんに毒気を抜かれちゃったということか?」

 2年生たちが、ひそひそと噂をしている中、1年のスズキが彼女にどうぞとパイプ椅子を運んできた。ミズグチエリさんは、ありがとうと言いながら腰かける。スズキは3年間柔道を真面目に続ければ、こんなに美しい人を恋人に出来るのだと固く信じた。

 サガワが準備体操を済ませた頃、乱取りが始まった。ところが、いきなりマツイから、小内刈をくらい倒されてしまう。タナカからは体落しで投げられるし、他の連中からも押されっ放しだった。もう、あの鬼より怖いサガワ先輩の片鱗などどこにもなかった。

 ミズグチエリはパイプ椅子に腰かけたまま、微笑しつつサガワの姿を追っていた。とても聡明な眼差しをしている。というより見るものをたちまち魅了させてしまうエリの輝くような美しさに誰もが感動してしまった。

『俺が弱くなったんじゃないよ。きみらが強くなったんだ。自信を持ちたまえ。武道の世界は稽古を怠ればすぐにこうなるものだ』
「サガワ先輩、またいらしてください」
 すっかり貫禄がついたひょろマツ、いや、マツイ部長が出入り口に部員全員を整列させた。
『これでも受験生で忙しい身だし、きみたちに壊されたらたまらんからな。なにせ華奢なもので。まあ、気が向いたらね』
「でも、先輩、絶対にまたきてくださいよ。ぼくは先輩に守られ、鍛えられ、育てられました。多くの薫陶を受けたことは絶対に忘れません」
 サル、いや、カンノがぽろぽろと涙をこぼし始めた。ズンドウ(スドウ)もカナヅチ(イシイ)もブキミ(ヤブキ)も皆一斉にしゃくり上げている。
『バ、バカ、武道家が簡単に泣くな』

 サガワは惚れ惚れとするような鮮やかな笑顔を見せながら右手を挙げた。

「サース」
 部員全員の声が高らかに周囲へ響きわたった。

「サガワさん、みんなが非常に気になっていることなんですけど、ミズグチさんとはどうやって知り合ったんですか?」
 タナカが、つい数ヶ月前なら確実にサガワからぶん殴られるような質問をした。
『おまえは、いつもいい質問をするなあ。エリは普通に”隠れサガワファン”だったんだとよ』
 エリは可愛らしく噴き出していた。

 抜けるような青空の下、赤と白のカラーリングが映えるバイクにサガワはひらりとまたがった。そしてタンデムシートにはエリを乗せて、ゆっくりと加速していく。

 以後、サガワが母校の柔道場に再び現れたという形跡は存在しなかった。

 でも部活動日誌への記録にはないかも知れないが、あの鬼より怖いと呼ばれた男の鮮烈な伝説は部員たちの記憶へ確実に刻まれ、以後、長きにわたって語り継がれていったそうな。

 ちなみにサガワの母校は、後年女子校化してしまう。したがって、現在存在する柔道部は、女子柔道部だという事実を付記して筆を置こう。 



FIN



北野一機 作



2008.3.3 UP



この物語は以前ブログで連載したストーリーを加筆修正した読み物です。

作品へ登場する人物及び団体等はすべてフィクションです。



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